It's my melodyいつか君の夢 かなえるために 今日を生きているよ 忘れないで
すべてのこと 今 思いのままに そして きっと明日のために

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「シー・アー・ガイナー・シー・メー・イークー?」 22:59
 今、ボッド・キャスティング版「It's my melody」のBGMとして流れている曲は、ダンス☆マンが作詞、作曲、アレンジ、プロデュースを手掛けている作品。もちろん、ボーカルは僕、川島佑介ですよ。

 曲のスタジオ・ワークを前にして僕から彼に要望したのは『僕の声を“素材”として使って実験的なもの作りたいので全部お任せでよろしく!』というものでした。

 デモの歌入れの為にその日、ジャンプ☆マンのスタジオへ行きドアを開くと、背の低いテーブルに思いきり顔を近づけながら何やら紙に言葉を書き綴っているダンス☆マンがいました。その時書いていたのがこの曲のタイトル「シー・アー・ガイナー・シー・メー・イークー?」という言葉。どういう意味かと聞いたら「足長いな、飯行く?」という意味だと教えてくれました。・・・・彼一流のユーモアで業界人を思いきり皮肉って遊んでるな、と僕は感じました。

 以前より僕は、自分の声を楽器のようにいろんな形で使ってみる、ということをずっと実験してきているのですが、結局は自分で作っていたものよりもダンス☆マンとのコラボしたものが先に形になり、今回皆さんに聴いて頂くことになってしまったわけですが、実はこの作品のお陰で僕の中の自分の声に対する認識は大きく変わったんです。

 ダンス☆マンの“音楽を使って遊ぶ”というセンスはスバ抜けていて、一緒に作品を作っているとそれを強烈に僕は感じるのです。彼のアレンジは「冗談じゃないの?」と思うくらいに大胆なのだけれども、実はその裏ではもの凄く“細かいこと”をやっている。いわゆる「そんなことやってもほとんど誰も気づかないよ」的な“こだわり”ってやつです。そんなところに彼の音楽に対する深い“愛”を感じるわけですが、でもそうした“こだわり”というものこそが人に“熱さ”として伝わってゆく部分でもあると僕は思っています。

 そして彼の“こだわり的な遊び心”はサウンド面だけではなく、詞の部分にも僕はたくさん感じます。でもまぁそれにしても「足長いな、飯行く?」とは・・・・。歌う時に僕は一瞬引いてしまってる自分に気がつきましたが、何回か歌っているうちに僕はとっても楽しい気分になってきてしまって「もしかしたらこれが自分の本当のキャラなんじゃない?」などと感じたりしてね。それもまた彼の音楽が持つマジックの部分かもしれないななどとも思ってしまう。多分、彼が僕の声を使って楽しんでくれたこの曲は、この先何年か経ってから、さらに思い出深い作品なってゆくような予感がしています。かっこいいギター弾いてくれたジャンプ☆マンにも感謝!
| music | comments(0) | trackbacks(2) | posted by 和栗卓也
「ふたりきりのParadise」 23:55
 明日の夜、ポッド・キャスティングの第二回目の更新が行われる予定です。ゲストは皆さんの予想通り「ダンス☆マン」。彼とのことは追々と番組の中で、またブログの中で語ってゆくことになると思いますが、とりあえず今日のところは番組中で流れる予定のオリジナル曲をご紹介します。

 この曲は先日の「赤レンガ」のオープニング・アクトを務めさせて頂いた時にもアコギ二本のアレンジで演奏したのですが、実は僕のライブではたまに歌っていたりします。制作した当時僕は「ダンス☆マンにも歌ってもらえるような曲」という意識を持って書きました。作曲する前にダンスマンと打ち合わせをした際、ダンス・ミュージックの定番であるところの「ループ」を意識して『「Åメロ」と「サビ」の部分は同じコード進行にしよう』という取り決めをしていました。僕は放っておくと複雑な構成の曲を作ってしまう傾向があるので、そうしたある程度の“縛り”があった方が最終的に解り易いものになっていたり、通常僕が作っている曲とは一味違うものになることが多いですね。この曲の場合には結果、楽曲的にとてもシンプルなものになりました。

 客観的に僕という人間は、普段はいろいろな話を語ってはいるものの、望んでいることはとてもシンプルなのです。それがこの詞にはとてもよく出ている気がします。日頃から思い浮かべている自分の中のベーシックな世界をストレートに書いたせいか、驚くほど短い時間の中で出来上がりました。ギターを弾いているのは当然、ジャンプ☆マン。一年程前に彼のプライベート・スタジオで録音しました。


     ふたりきりのParadise

 君を思う心だけ 他に何ひとつない
 だから君は信じるの ありのままの僕のこと

 隠していた傷痕に そっと君 口づけて
 いつしか溶かしてゆく 遠い日々の僕のこと

   Woo 君のすべてを Woo 今 求めてる I love you

     抱きしめるほど溢れてく 愛し合うたび自由になれる
     君といれば何処までも飛んで行けるHaven I love you

     誰にも知られることのない 隔絶された世界の中で
     いつまでも愛し続けたい ふたりきりのParadise

 いつの日にか傷ついて その翼をなくしても
 僕は君を離さない この世界の終わりまで

   Woo 君の心を Woo 守り続けたい I miss you

     切ないくらい溢れてる 君への思いを伝えたい
     愛があればそれだけでふたり満たされてる I love you

     抱きしめるほど溢れてく 愛し合うたび自由になれる
     君といれば何処までも飛んで行けるHaven I love you

     誰にも知られることのない 隔絶された世界の中で
     いつまでも愛し続けたい ふたりきりのParadise
| music | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
「時の中で」 06:10
 以前の僕が書いた作品のひとつに「時の中で」という曲があります。僕の作品はそのほとんどがメロディーから書いたもので、その創作方法は「曲先(きょくせん)」と呼ばれています。ちなみに詞を先に書くことは「詞先」と言います。

 12年前というのは僕にとってまさに“悩み多き時代”で、詞ひとつ書くことも今の何倍も苦労していました。それは己の混沌とした心というものをどのようにして理解して良いかまったく分からなくなるといったことでもありました。

 当時の僕の「心の叫び」とも言うべきこの楽曲のメロディが、自分の心の中から勝手に染み出してきた時、僕はそれまで経験をしたことのない感覚を憶えました。それは自分の内面が音楽にそのまま映し出されることの「快感」、または「恐怖」とでも表現したらよいでしょうか。なので僕はそれ以前に作ってきた作品たちとは違った詞の書き方をしてみようと思いました。つまり曲同様に詞も染み出してくるまで待つことにしたのです。

 それまでの僕の詞はどこか誰かの視線ばかりを気にしている「着飾った詞」でした。ですが「時の中で」のメロディにはそういった詞を付けたくはないと思っていました。そこで自分の心から溢れてくるものを「良い」とか「悪い」とかいうふるいにかけることなく、ありのままの心を書き出してしまおうと考えたわけです。そして僕はその「心のスケッチ」をする場所を何処にするかということを考えました。しかしその場所さえも決まらないうちに時だけが過ぎて行きました。けれどいよいよレコーディングも間近に迫ったある夜に突然ひとつの場所が脳裏に思い浮かんだのです。

 

 「祐天寺」にあったマンションの部屋を飛び出した僕は駅前のロータリーで停まっていたタクシーに乗り込み、新宿へと向かいました。「新宿ALTA」の辺りで降り、真夜中の歌舞伎町をひとり歩きました。いろんなことを考えながら歩いているうちに大ガードを越えており、気がつくと僕の足は「西新宿」へと。

 

 やがて「西新宿」の高層ビル群の狭間まで来ると僕はそこで腰を落ち着けることにしました。そして僕は佇んだまま自分の心から「叫び」が染み出してくるのをひたすら待ち続けることにしたのです。

 

 それから何時間も僕はひたすらに待ち続けました。やがて空が薄明るくなり始めた頃、それは起こりました。心の中でメロディが流れ出し、僕の手がまるで何かに憑りつかれたかのように勝手に書き綴り始めたのです。一端、そんな状態になってしまうとあっという間にノートの一頁が言葉で埋まってしまいました。それを部屋に持ち帰った僕は「音になった心」と「言葉になった心」を照らし合わせひとつの曲を完成させたのです。その時からそうした手法が僕の作品作りの基本になりました。
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「when I'm sixty-four」 16:42
 ♪私がおばさんになっても本当に変わらない?とても心配だわ あなたは若い子が好きだから・・・・

 森高千里さん自身が作詞をした、この「私がおばさんになっても」という曲が発売になったのは1992年6月25日。僕は既に32歳の立派な「おじさん」になっておりました。

 この曲をはじめて聴いた時、僕は思わず苦笑い。それはこの曲の詞が別の懐かしい楽曲を思い出させたからでもあります。その懐かしい楽曲とはビートルズの「ホエン・アイム・シックスティフォー」。この曲が発売されたのは1967年の6月1日。当時、ロック・アルバム史上最高傑作と云われ、世界で1300万枚を売り上げた「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に収められていました。詞の内容は・・・・

 ♪君はまだ僕を必要と思っていてくれるのかな?まだ僕に食べさせてくれる?僕が64才になるその時に・・・・

 この曲の作詞、作曲をしたのは稀代の天才アーティスト、ポール・マッカートニーは昨日6月18日に65回目の誕生日を迎えました。彼はビートルズ、ウイングス、そしてソロとして数え切れない程の名曲を残した人であり、僕にとっては憧れの存在です。そんな彼が当時、ロック・ミュージシャンを撮るカメラマンとして有名だったリンダ・イーストマンと結婚したのは1969年のことでした。

 結婚後、ウイングスの活動に参加したリンダは動物愛護、環境保護のためにその生涯をかけて闘い続けました。そして晩年は乳癌とも闘い続け、1998年4月19日、最愛の人の腕に抱かれたままこの世を去りました。ポール・マッカトニー58歳の時でした。

 ポールとリンダが結婚していた29年間、二人は一晩たりとも離れることはなかったと云います。リンダと知り合ってからのポール・マッカートニーの音楽はひと言で云って「生きる喜びの音楽」。そんな彼の人生はリンダによってずっと支えられ続けてきたのだと僕は感じます。ポールが楽しみにしていた64歳の時、リンダはもうこの世にはいませんでした。しかしポールの心からリンダの存在が消えることはこれからも永遠にないのでしょう。またリンダの魂からも彼と生きた日々は消えることはないはずです。彼と彼女とで育んだ二人の「人生」という名の食卓の上にはいつも「愛」というご馳走があるのですね。

 下記はリンダさんの死に際して発表されたポールの声明文です。

 『・・・・ふたりといない特別な人だった。リンダと出会ってから、世の中をそれまでよりもっといいものだと思えるようになった。彼女の愛のメッセージは、これからも永遠に僕たちの心の中で生き続けます。愛してるよ、リンダ。』

 さて64歳になった時、僕の食卓にはどんなご馳走があるのでしょうか?
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「ライラック30周年記念CD」 18:33
 昨日のブログにも出てきた僕が高校時代に組んでいたバンド「ライラック」。以前にも「Lilac」という題でちょっと書いたことがありましたが、その中で、30年前のテープに手を加えてみた、というようなことを書きました。そこで今日は30年ぶりのレコーディングに参加した僕以外の二人のメンバーについて書いてみたいと思います。



《 新井克彦 》
 彼と出会ったのは高校二年の時。それこそ今からちょうど30年前のことです。当時、僕が付き合っていた女の子と彼の付き合っていた子が割りと仲が良くて、バンドのメンバーを探していた彼は彼女たちを通じて僕のことを知ったのでした。

 ある日、校舎の内廊下を走って僕の元へやってきた彼は開口一番『一緒にバンドやらない?』と言いました。それまで同じ学校にいるとはいえ、彼とは一度も口をきいたことがなかったので、その言葉を聞いた瞬間は正直唖然としてしまいました。ですが、彼の真剣な目を見て僕は一緒に組むことにしたのでした。

 当時のオリジナルはほとんどが彼の曲でした。僕の作っていた曲はとうとうこのバンドではやることがなかったです。彼は良い曲を書く人で、今回手を加えた「小さな街の喫茶店」という曲は、彼の妹さんの投稿によってチューリップの財津和夫氏のラジオ番組で取り上げられ、何と翌週にも聴取者のリクエストでオン・エアーされたということがありました。

 彼は高校卒業後、デザイン系の専門学校を経て「EIKOSHA」という出版社に勤める一方、本社の地下にレコーディング・スタジオを作り、プロデューサー、ディレクター、エンジニアとして多くの音源制作に携わり、自らもミュージシャンとしてCDを制作していたりします。彼は自社レーベル「英光社Eggplantレーベル」を立ち上げ、チューリップのドラマー、上田雅利氏のソロ・アルバム「Gratitude」をリリースしています。またこのアルバムの参加アーティストがとても豪華なのであります。杉真理、松尾清憲、伊豆田洋之、風祭東、清水仁(元オフコース)、橋本哲、渡辺格、稲葉智、小泉信彦、佐藤晃(infix)、山本圭右・・・・。思わず唸ってしまいます。

 

《 佐藤晃 》
 TVドラマ西遊記の主題歌などでも有名な「infix」のギタリスト&コンポーザー。他にも最近では数多くのアーティストのサウンド・プロデュースを手掛けています。

 彼とは新井氏を通じて知り合ったわけなのですが、なかなかに凝り性な人で、ちょっとの遊びのつもりでやってみようというものに対しても短時間のうちに細かいレコーディングを一人で仕上げ、スタジオに持ってきてくれます。今回の「ライラック」のオケで後から手を加えた部分はすべて彼が作ってくれたものです。

 彼はまたとても辛抱強く人の話を聞ける人でもあります。いつだったか、新井氏と三人で居酒屋で呑んでいて異様に議論が白熱してしまったことがあり、僕と新井氏とで延々と喋り続けてしまい、気がつくと二時間以上も経っていた時にも適当な相槌をこまめに入れながら、話を盛り上げ続けてくれました。いやはやあの時は大変ご迷惑をお掛けしました。



 また三人で楽しいことをやりましょう!
 
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ピアノを弾き始めた頃 22:29
 まだ若かりし頃、僕の父はピアニストになりたいと思っていたことがあり当時、日本最高峰だった某音大を受験して落ちたことがあったそうです。それくらい音楽が好きだった父は、僕が17歳の時、ある日突然に格安で中古のアプライト・ピアノを買ってきたのです。

 その頃、僕は高校の同級生と「ライラック」というバンドを組んでいました。文化祭でオリジナルの中の一曲をピアノでやりたいね、という話が出てたのですが、誰もピアノを弾いたことがなかったので、結局のところ自宅にピアノがあった僕が担当するということになったわけです。

 休み時間になると僕は、よく音楽室へ行ってグランド・ピアノを弾いていましたが、何せ我流なものですから上手な人が入ってくると恥ずかしくてすぐに弾く手を止めてしまいました。

 同じクラスに石川真希さんという女の子がいました。彼女はもの凄く上手くて、特に荒井由実を弾かせたら最高でした。僕が『プロになろうとか思わないの?』と尋ねると彼女は『今の私は音楽よりスケートの方が好きなんだ』と言っておりました。

 それから25年以上経ったある日、「ライラック」のメンバーだった友人から『石川真希ってさ、佐野史郎と結婚したって知ってた?』と言われて驚きました。今考えてみれば、ピアノひとつをとってもとても才能のある人でしたから当然のことのような気もします。ちなみに彼女は高校卒業後、佐野史郎さんとバンドや演劇で共に活躍。現在は吉祥寺でブティックを営んでいらっしゃるという噂・・・・。

 以下はその頃(1977年頃)の僕の主なピアノ曲のレパートリーです。

《 ライラック 》
  時という風

《 オフコース 》
  よみがえるひととき/水曜日の午後/別れの情景/もう歌は作れない/
  あの角をまがれば/わが友よ/秋ゆく街で/雨の降る日に/眠れぬ夜/
  ワインの匂い/あれから君は/愛の唄/幻想/老人のつぶやき/
  青空と人生と/冬が来るまえに/歌を捧げて
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ギターを弾き始めた頃 20:58
 僕がギターを始めたのは中学二年の時。その頃、一家が住んでいたのは駒込と田端の中間の辺りにあった木造のボロアパート(大家さんごめんなさい!)でした。友達に借りたままのギターを毎日夜遅くまで弾き続けていた僕は、ご近所の方々に随分とご迷惑をかけていたことと思います。

 その日もいつもの如く、学校が終ると僕は自宅へ真っ直ぐ帰り、夜が更けるまでギターをかき鳴らしていました。部屋の明りを消すと集中力が出て上達も早いので、僕はよく真っ暗な部屋の中で弾いていたのですが、その時は課題曲に決めていた曲がもう少しで全部弾けそうだったので、気合を入れて何度も何度も同じところを繰り返し練習をしていました。やがて汗で手のひらはヌルヌルになり、タオルでいくら拭いても渇きません。仕方がないので練習を終了することにし、部屋の明りを点けました。すると目の前にあるギターとタオルが真っ赤に染まっているではあーりませんか。次の瞬間、僕の左手には激痛が走りました。それからの数日間、僕は左手では何も触れない日が続いたのですが、それでも包帯をしながらギターだけは毎日いじっていましたね。

 そんな風に必死になってギターを弾いていた頃をたまに懐かしく思い出します。あの頃は音楽と恋愛が人生のすべてでした。でもそんな時代があって今の自分がいるかと思うと何事も一生懸命だったことはいつかは繋がってゆくんだよななどと感じたりもします。

 以下はその頃(1974〜75年頃)の僕の主なフォーク・ソングの弾き語りのレパートリーです。ちなみにその頃は放課後の教室が僕のステージとなっていました。

《 井上陽水 》
  傘がない/東へ西へ/氷の世界/心もよう/夢の中へ/帰れない二人/
  人生が二度あれば/いつのまにか少女は/愛は君/紙飛行機/白い一日

《 赤い鳥 》
  翼を下さい/赤い花白い花/河/竹田の子守唄/忘れていた朝/紙風船

《 オフコース 》
  僕の贈りもの/よみがえるひととき/水曜日の午後/地球は狭くなりました/
  でももう花はいらない/貼り忘れた写真/さわやかな朝をむかえるために/
  もう歌は作れない/のがすなチャンスを/わが友よ/青春/秋ゆく街で/
  キリストは来ないだろう
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フォーク&ニュー・ミュージック 23:35
 昨日の「ロック」に続いて今日は僕が好きだった日本の「フォーク」&「ニューミュージック」についてです。

 「詞」の内容に重きを置いた日本の「フォーク」の中からプロのアーティストが出始めたのは1960年代の後半。歌謡曲とは一線を画した独特の世界を持つ「フォーク」で育った世代の中から、1972年頃「サウンド」や「メロディ」に重きを置く「ニュー・ミュージック」と呼ばれる音楽が生まれました。

 僕が最初に好きになった「フォーク・ソング」は1967年末に発売され、ミリオン・セラーにもなった「ザ・フォーク・クルセダース」の「帰ってきたヨッパライ」。でも当時は「フォーク」という意識も僕の中にはなかったので、僕にとっては歌謡曲だったのかもしれません。「フォークル」の曲の中では、むしろその何年も後になってから知った「青年は荒野をめざす」や「イムジン河」の方が素敵だと感じました。でもその後の活動も含め、「加藤和彦」氏の音楽はトータルで大好きです。

 僕の中で「フォーク」や「ニュー・ミュージック」が大きな波として押し寄せてきたのは11〜13歳の頃。「あの素晴らしい愛をもう一度/加藤和彦・北山修」「出発の歌/上条恒彦と六文銭」「結婚しようよ/吉田拓郎」「傘がない/井上陽水」「学生街の喫茶店/ガロ」「地下鉄に乗って/猫」「魔法の黄色い靴/チューリップ」「僕の贈りもの/オフコース」「翼をください/赤い鳥」「グッド・タイム・ミュージック/斉藤哲夫」・・・・など書き並べられないくらい良い曲がたくさん生まれた時代でした。

 14歳の頃から僕はバンドではドラムスで「ロック」、そして一人の時にはギターで「フォーク」&「ニュー・ミュージック」を演奏するようになりました。ギターで好んでよく演奏したのは「井上揚水」「グレープ」「オフコース」「赤い鳥」の曲。中でも分数コードが多い「オフコース」の曲は難しかったのだけれどもちょっと弾けるだけでも周囲からは尊敬を集めることも出来たので鼻高々でした。そう言えば、大好きな女の子に自分の歌った曲をカセット・テープに入れて渡したこともあったっけ・・・・。その頃、自分が歌ってるテープは今も手元にあるのですが、不思議と声だけは30年経った今もほとんど変わっていません。そそ、声だけはね! 
| music | comments(2) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
ロックの日 22:46
 「ロック」って何?と尋ねられたとしたらあなたならばどう答えますか?きっと10人に尋ねれば10人とも違うことを答えるのかもしれませんね。それくらい「定義」を決めるのが難しい言葉です。「定義」はさて置き、今日は僕が聴いてきた「ロック」の話を・・・・。

 僕が好きになった最初の「ロック」は「ビートルズ」からでした。小学六年生の時に友達の家で聴いたのがきっかけ。「ヘイ・ジュード」「イエスタデイ」「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」「ヘルプ!」「涙の乗車券」を聴いた覚えがあります。次の日にはLPレコードを買いに走りました。今、考えてみれば「ビートルズ」は「ロック」というより「ポップス」というイメージだという人も多いでしょうね。ただ、1960年代から1970年代前半の「ロック」と「ポップス」の間にはある程度「定義」らしきものがありました。基本的に「ロック」はギター、ベース、ドラムスがバンドの構成に入っていること、そしてサウンドはビート感を強調。メッセージ性があり、自作自演であること。ということが僕の周りではもっともらしく語られていたことです。「ポップス」は自作ではなく、当時においてはレコード会社の戦略的な音楽で、その市場のほとんどはアイドルたちによって占められていた印象です。

 「ロック」に近いところでは「フォーク」と呼ばれるジャンルがあります。「ロック」が「リズム&ブルース」を基となっているのに対して「フォーク」はいわゆる「アメリカの民謡」を基としていて、主にアンブラグドな楽器を用いて演奏をします。やがてそんな伝統的な「民謡」を歌っていた人たちの中からオリジナル曲を中心に歌う人が出てきます。その中には「ロック」の要素を積極的に取り入れるミュージシャンも現れ、また「ロック」のミュージシャンの中からも「フォーク」的な要素を取り入れる人たちも出てきました。「フォーク・ロック」の出現です。

 1950年代終盤に生まれたとされる「ロック」は様々なジャンルの音楽と結びついてゆき、「ブルース・ロック」「カントリー・ロック」などと呼ばれる新たな音楽スタイルをも生んでゆきました。

 「ビートルズ」から始まった僕の「ロック」はその後、中学生に上がり、バンドを始めたことをきっかけに「ディープ・パープル」「レッド・ツェッペリン」「ウィッシュボーン・アッシュ」などの「ハード・ロック」に向かいます。高校に入る直前には「ピンク・フロイド」「キング・クリムゾン」「イエス」「エマーソン・レイク&パーマー」などの「プログレッシヴ・ロック」へと移行してゆきました。てなわけで、高校までは聴いていたほとんどがブリティッシュ。アメリカの音楽は「カーペンターズ」「ブレッド」といった「ソフト・ロック」と「イーグルス」「ドゥービー・ブラザース」「ジャーニー」などの「アメリカン・ロック」と呼ばれるものを好んで聴いていました。そして二十歳代中盤頃からは「アダルト・オリエンテッド・ロック」が僕のブームとなり、「ボビー・コールドウェル」「マイケル・フランクス」「デビッド・フォスター」にどっぷりと嵌ったわけです。

 こうしてお気に入りの音楽を書き並べてみると、僕の音楽の好みが小学校の頃から現在に至るまで実はほとんど変わっていないということがよくわかります。「メロディアスでロマンティック、ドラマティック」その流れは今の自分の音楽へと続いています。僕が最後に好きになった「ロック」は「ブライアン・アダムス」でした。1984年に発表されたアルバム「レックレス」以降、僕は「ロック」をほとんど聴かなくなりました。

 「ロック」は僕にとって「自分の精神性そのもの」を表している音楽だったと言えるかもしれません。今の僕にとって「ロック」は「聴くもの」ではなく、自分の人生の中で「体験するもの」であり、自分自身が「表現するもの」になっています。
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「BORDERLINE」 09:42
 「喜怒哀楽」という感情は生活に潤いを与えてくれるとても大切なエレメント。けれど、時に持て余すほどに溢れてきてしまうと対人関係においてはむしろ厄介な立場に追いやられる原因になってしまうことがあります。かく言う僕もそうしたことで悩むことが度々・・・・。と言っても僕の場合、そのトラブルの元が「楽」の部分だったりするので、人からは大変面白がられてしまいますニコニコ

 僕は一度笑い始めるとどうにも止まらなくなることがあります。いつまでも同じネタを頭の中で再生しては喜んでいたりするのです。ひとりでいる時には何も問題はなく、幸せそうな人ね、で済むことですが、誰かと一緒の場面で出てしまったりすると笑い事じゃ済まない問題に発展しそうになり、青くなることもあるんですよひやひや

 何んてったてひとつ面白いことが浮かぶと次から次へと浮かんできて、所選ばずに大笑いしそうになるわけですから自分のことながらほんと困ったもんだと思います。僕をよく知る人ならば『また何か可笑しいこと思い出したんでしょ?』などと察してくれたり、僕に釣られて一緒に笑いだしたりもしてくれますが、誰かが真剣に話している場面などで出てしまうと厄介なことにもなり得るのです。そんな場面で面白いことなんか何故考えてしまうんだ、と思われる方もいらっしゃることでしょうが、そういう場面に居合わせた時の僕というのは、何とかして硬い雰囲気をユーモアで変えられないか、そしてリラックスした雰囲気の中で前向きな希望のある話が出来ないか、と考える傾向があるのです。深刻に考えるばかりでは妙案が浮かぶはずはありませんし、幸せになる為の発想はいつも笑顔から始まるものだと僕自身が信じているからなのでしょう。ですから慎重に相談者の言葉に耳を傾けながらも、その話の展開を先読みし、この煮詰まった状況を打破するような「会心の一発」を何処かで繰り出せないかと僕は考えるのです[:ふぅ〜ん:]

 でもそんな時に相談者がポロっと言った一言がたまたま「私の頭の中のアホ・ギャグ集」などとリンクしてしまったりするともう大変!リンクにはリンクが張られていて、僕はまさに「ひとりモンティ・パイソン」状態です!しかし真剣な話の途中で、トイレに行ってくる、とも言えないですから下を向いて笑いをひたすら堪えようとします。するとやっぱり誰かにはバレるわけですよ。何せ僕の両肩だけはひくひくしながらしっかり笑ってるんですから。それに気付いた相談者は『何が可笑しいのよ〜!』なんて軽くキレる。またそういう反応も僕にはとても可笑しく感じてしまって、ついには「ギャグの中の私のアホ頭」状態!イヒヒ

 さて今日は何の話をしたかったんだっけ?何だかこう少しだけまともな話をするつもりだったような・・・・。そうそう、思い出しましたたらーっ

 「喜怒哀楽」が「負の感情」として表に溢れて出てしまいそうになる時、僕はどうしたものかと大いに悩みます。そうした「負の感情」は自分だけならいざ知らず、周囲の人の心までも乱してしまいます。すぐに勝手を始めてしまうものですから、そんな自分の感情を日頃から「野放し状態」にはしないケアは大切なことです。しかしそんなことだけで収められないような事態も人生に度々起ります。

 人間同士、時には誰かの抱えきれない悲しみや怒りを分かち合って支え合うことはとても素敵なことであり、大切なことだと僕は思っています。しかしそれらの感情を受け止められる人がいないと感じた時に感情はもがき始め、まるで暴力のように他人の心をも傷つけ、やがては感染し「負の連鎖」なるものを創り上げてしまうことがあります。それは誰かが投げた小石が見知らぬ誰かに当ってしまったことから、当てられた人がまた誰かに向けて小石を投げる。そして・・・・。

 国家同士の戦争もきっかけは個人の小さな感情から生まれている、と語る人もいます。投げつけられた小石を誰かが止めなければ人と人との争いは永遠に途絶えることはないのでしょう。ですから誰もが小石を投げたり、投げ返したりしないで済むようなケアを各々が真剣に考えなければいけないのではないかと考えるのです。

 人を争いごとへと向かわせる原因には「プライド」というものがあります。「プライド」も活かしようによってはとても良い要素になるのですが、それが元でつまらぬ諍いになり、果てしない石の投げ合いになってしまうくらいならば、そんな「プライド」はいりません。どうせ持つのであれば「投げ返さない勇気」を与えてくれるような「プライド」を僕は持っていたいと思います。

 一人では消化することが困難なこともある厄介な「負の感情」というもの。この世界には他人のそれをまるで自分のことのように感じて共に生きてくれる友がいます。そんな友を僕は大切にしてゆきたいですし、その友を守っているこの世界も大切にしてゆけたらと思います。そして何より「負の感情」に流されてばかりいない自分を少しずつでも培ってゆきたいと願っているこの頃です。

 「自分の感情の中にある境界線」「自分と他者との境界線」それらの中でもがき苦しむような事態を人が招いてしまうのは、実はほんの紙一重程の「心のズレ」から来ていることなのではないでしょうか。その「心のズレ」を修正してくれるありがたい存在のことを僕は「愛」と呼んでいます。  


  BORDERLINE

誰も知らない心の鍵は 時のない記憶の森 
哀しみだけ湛える湖のほとり

君の瞳に見た憧れは いつまでも忘れない希望の日々 
僕等の明日

 低く閉ざした雲の隙間から 今光あふれてる

  愛が君を抱きしめたまま 遥かな宇宙を駆けて行く
  君と二人 彩る夢に 今日の風を解き放とう

辿り着けない迷宮の日々 
許し合う心だけがなだらかな道に変えてゆく

 巡り続けた涙の鎖を 今ここで断切ろう

  ふたり 愛を信じ合えたら 隔てる河も消えてゆく
  君を胸に抱きしめながら 明日の風に飛び立つのさ

  愛を信じ合えたら 隔てる世界 越えてゆく
  君を強く抱きしめながら 明日の風に飛び立つのさ

  愛が君を抱きしめたまま 遥かな宇宙を駆けて行く
  僕等が今 彩る夢に 今日の風を解き放とう
| music | comments(1) | trackbacks(1) | posted by 和栗卓也
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