It's my melodyいつか君の夢 かなえるために 今日を生きているよ 忘れないで
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映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観る前に 23:58
 僕は特定の宗教は持っていません。しかしイエスが残したと言われる言葉の中には「真実」があると感じていますし、聖書は僕の愛読書のひとつにもなっています。いわばイエスは人生の師のひとり。そしてまた兄弟のいない僕にとっては親しみをもって「お兄ちゃん」という感覚も抱いていたりする存在です。

 今、世界中を論争の渦に巻き込んでいる映画に「ダ・ヴィンチ・コード」という作品があります。最近、知り合いに会う度に『この論争についてどう思う?』と尋ねられます。実はまだ僕はこの映画を観ていないのですが、映画の中で語られている噂のほとんどはもう二十年以上も前から知っていたことでした。

 この映画の原作である同名の「ダ・ヴィンチ・コード」という小説はダン・ブラウンという作家が、キリストの死後、語られ続けてきた数多くの流説をひとつの長編推理小説としてまとめあげ、2003年に出版したものです。過去に様々なイエス・キリスト像を描かれた小説や映画や絵画は数え切れない程あります。近年のもので言えば、映画「パッション」もそのひとつで、その残虐な拷問シーンやイエスの人間らしさを強調していると言われるその描き方が論争にもなりました。僕自身、この作品を三度観ましたが、その映像はかなり衝撃的であり、まるでその「現場」にいて見聞きしてきたような錯覚を抱かせる程にリアルなものでした。

 では何故、今回の「ダ・ヴィンチ・コード」に関してはこれ程までに大きな論争を巻き起こしてしまったのでしょうか?それはひとえに小説の冒頭に記述された「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述はすべて事実に基づいている」という表現の受け取り方にあるように思われます。それは多くの人々にとって、あたかも小説のストーリーそのものが事実であるかのように感じられてしまう恐れを含んでいます。

 キリスト教の大前提は「イエスは神の子である」ということを信じること。そこからすべての信仰が始まるのです。その彼が、実は結婚をしていており、子孫まで残していた・・・・。そのことをまことしやかに語られるということは、キリスト教信者にとってはキリストの神性を汚しているとも感じられることでもあるのかもしれません。

 世界にはいろんな国があり、情勢も違います。またそこに住む人の心の中にはそれぞれに違った悩みや苦しみがあります。世界中には本当に多くの人々が「キリストが神であること」を信じることで救われているのは事実なのです。別な言い方をすれば、そうした人々にとっては「キリストが人間であること」は信仰の根本をも揺るがすことになりかねないわけです。つまり人生の意味までもを大きく変わってしまうことにもなりかねない映画であると言うことも出来るわけです。ですから教会やヴァチカンが「観ないように」と言う事はよく理解できるのです。人の心は惑いやすいものなのですから・・・・。

 もしこれからこの「ダ・ヴィンチ・コード」という映画を観られる方がいらっしゃいましたら、そんなことを頭のどこかに置いて観ると作者の表現したことや世界で騒がれていることの意味がさらに感じられるようになり、一層興味深いものへとなってゆくのではないかと思います。かくいう僕も今一度、イエスの残した言葉などを読み返したりしてから、この話題の映画をじっくりと観てみたいと思っています。
| column | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
血液型 17:34
僕の血液型は「A型」。それはプロフィールに書いてある通り。でも10年程前までは「B型」だった。おかしな話だと思われるだろうが、僕の血液型はある時を境にして突然変わってしまったのだ。

生まれてからずっと「B型」だった僕は、周囲から「とってもB型らしい人」として定評があった。『ロマンティストで、マイペースで、捉えどころがなくて、生活感がなくて、一言でいうと「いつも自由な人」だよね。どこから見てもB型って感じ〜』。それは「極楽トンボ」ということか?どこから見ても・・・・って、そんなに見てたんだ?などと思いながらも「B型」として認識され、生きる日々はとても気楽だと感じる場面が多かった。ただひとつだけ「B型の生活」の中で損をすることが実に多いと感じたのは、初対面におけるファースト・インプレッション。合コンなどというものに無理やり参加させられた(?)時には『B型だからダメ〜』と思いきり不評をかったこともある。先入観とは恐ろしいものだ。一端そういうイメージを抱いてしまうと、人間はそれを用いてその人のすべてを計ろうとしてしまう。B型が持つと云われる「ロマンティスト」というイメージのおかげで楽しい時間を持てたこともあるにはあるけれど、基本的には現実的な人からすると、付き合う上でのB型の人間というのは「マイナス・イメージ」の方が大きいらしい。そう言えば、あるB型の知人は悪い印象を持たれたくないということから、初対面では『A型』ですと言うようにしている、という話を聞いたことがある。それで良いことはあったの?と訊くと知人は、取りあえず基本的にはA型のフリをした方が無難だよ、と言っていた。それは彼にとって処世術みたいなものなのかもしれない。










“dior”

10数年前のある日、有楽町の数寄屋橋交差点の角に停めてある車の中で初めての献血をした時のことだ。ちょっと緊張を覚えながら移動献血車のタラップに足をかけ上り始めた時、車中で待ち受けていた看護士さんがいきなり僕に尋ねてきた。『あなたの血液型は?』『えーと、親からはB型だと言われていますが・・・・』と僕。すると看護士さんはちょっと呆れたような表情で『えっ?自分で調べたことないの?』と言った。『・・・・ないです』僕は、自分がものすごい世間知らずのマザコンみたいに思われたような気がしてちょっと恥ずかしかった。そして人の約三倍もの時間を費やして400CCの血液をやっとのことで採り終えると看護士さんが再び一言。『あなた、A型だったわよ。ちゃんと覚えておきなさい!』










“kagome”

その時から「A型」としての僕の新しい人生が始まった。それまで「B型」ということを言い訳にして「怠惰」極まりない人生を過ごしてきた僕も「A型」へと変身してしまったことを知って、もうこれからはそうしたことが許されなくなったと感じたのだ。今までろくに片付けもせず、掃除も人任せ、台所にはほとんど立ったこともほとんどなかった僕の生活が一変した。テーブルの上は常に整頓され、衣服も脱いだらすぐにタンスへと、洗濯機に洗濯物が溢れるということも無くなり、台所にはどんな料理に使ったら良いのかもわからないような調味料までがきれいに並んだ。それ以降に僕と知り合った人たちはそんな僕を見て皆、口々にこう言う。『几帳面だな〜。どうみても典型的なA型だよね』。










“wako”

地球上の全人類の性格の傾向をたった四つに分けてしまう「血液型占い」というものが、昔の僕にはまるで「100倍引田天巧ショー」くらいに感じられてとても面白く思われた。でも今はそれが「国民性」ということで、一国の人民すべての性質を括ってしまうのと同じくらいの怖さを感じてしまっている。中国を例に挙げるとすれば、その人口は世界の約五分の一。彼等には長い長い文化の歴史があり、それに培われた国民性というものが確かにある。でも中国にもいろんな性格の人がいるということは忘れてはならない。そう考える一方で、もしかすると血液型自体にもある程度の性格の方向性というものを示すような性質が存在するのかもしれないという思いもある。本当にあるのだとすれば、それを知ろうとすることも悪いことではないはず。しかしそうした予備知識というものを得ることが、人ひとりの性格を知ろうとする上で妨げになってしまうということだけは避けたいところだ。結論として「血液型による分類はほどほどに」それが僕の考えだ。










“Nissan gallery”

ところで僕の血液型は、いつ「B型」から「A型」へと変わってしまったんだろう?もしかしたら僕が眠っている間に宇宙人にさらわれ、UFOの中で血を抜かれ、新たな血液を注入されたのかもしれない。だから名曲がたくさん書けるようになったんだな。そうでしょ?ママ!
| column | comments(2) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
脳神経外科 23:52
5〜6年前から僕はひどい片頭痛に悩まされていたのだが、一昨日よりは今までに無いほどの痛みを感じるようになっていたので、万が一のことを考え、脳神経外科での検査を受けることにしてみた。僕は以前から肩凝りがひどく、それがあまりに辛い時にはマッサージやカイロプラクティックなどの施術を受けてはいたが、今回の特別とも思えるような痛みが、もしも別の、命にも関わるようなことが原因となっているのだとしたらなどと考えてしまい、今回だけはきちんと検査をしておくべきだと思ったのだ。

インターネットでいろいろ調べてみると、西新宿のとあるクリニックでは事前の予約が無くとも初診時のCT検査が可能だとわかった。一刻も早くこの頭痛の真相が知りたいと願う僕は、受付時間が始まる頃には既にそのクリニックの入り口の前で立っていた。










“media tower”


診察では簡単な問診のあと、頸部のレントゲンと頭部のCTというふたつの検査が行われた。検査の後、殺風景な待ち合いのベンチに座って様々な展開を想像しながら緊張感を募らせているとやがて僕を呼ぶ声が聞こえた。それは検査結果を知らせる為に担当医が僕を診察室へ来るようにと呼んでいる声だった。しかし早く結果が知りたいという気持ちとは裏腹に僕の脚はすぐには動かなかった。ちょっと軽い目眩を感じながら、覚束無い足取りで診察室の前まで行った。診察室の扉はさっきよりも重くなったような気がした。扉を開けると担当の医師がライティング・ボードに今しがた撮影したと思われる画像をちょうど着けていた。僕は軽く一礼して目の前に用意されている背もたれのない丸い椅子に座ると医師の表情を覗き込んでみた。医師は穏やかそうな顔で話し始めた。

担当医師の説明によると、頭蓋骨の内側にある脳は22歳頃を過ぎると細胞が減少し始め、それに伴い脳全体が収縮をしてゆく。そして頭蓋骨と収縮した脳の間には水が溜まり、その部分がCT上では白く映る、ということだった。さて僕の場合はどうなのか?生まれて初めて自分の脳を映した画像を見た。その画像の頭蓋骨と脳を示すものの間に白く映るはずの部分はほとんどなかった。それがどういう意味なのか、僕は少々不安になりながら尋ねてみた。医師曰く、『収縮してないということです。とても若々しい脳をお持ちですよ。優秀、優秀!他の部分もまったく問題ないようだね』その言葉を聞いて僕は悪い夢から覚めた時のような安堵感を得た。そして嬉しさに少しだけ目頭が熱くなった。僕の安心した様子を確認し、小さく頷くと医師は言葉を続けた。『あなたの頭痛は、ストレスや極度の緊張からくる筋肉の硬直によって脳内の血管が広がり、そこへ一気に大量の血液が流れ込むことで起こってくるもの。なので、毎日楽しいことなどをして心身のストレスを解消し、ゆっくり休養を取るように心がけて下さい』そこまで聞いた時、僕の心は完全に元気を取り戻していた。さぁ今日からどんな楽しいことをしようかな?既にそんな考えが飛び回るほどになっていた。とても心配性なくせにすぐに立ち直ってしまう、僕はそんな性格なのだとつくづく思い知った。

医師はまた、ストレスを起こす物質が含まれている食品名を具体的に挙げ、なるべく接収しない方が良いと言いながら、その主な名称が書かれた紙を渡してくれた。その時の僕は完全に「ひとり有頂天ホテル状態」になっていた。










“ebisu garden place”


クリニックを出た後、近くにあった都庁の45階にある展望室に上り、この上なく清々しい気持ちで東京の街を見下ろした。あまりに楽しい気分だった僕は展望室の「博品館」で何故だか小さなウサギのぬいぐるみを買い込んでいた。新宿から山手線に乗り、目白駅で降りるとお気に入りの自家製チーズの店「アトリエ・ド・フロマージュ」でケーキを箱に詰めてもらい、大好きな「丸長」の「つけそば」を頂いた。







“toward shiodome”


帰宅後はドリップしたコーヒーを飲みながらリビングのソファーでのんびり寛いだ。人生最悪の日になるかと思われた今日だったが、過ぎてみればとても楽しい一日だった気がした。テレビでは今日、今年初めての強い南風が吹いたと言っている。僕は僕の心にも「春一番」が吹いたようだと思った。コーヒーを飲みながらご褒美(?)のチーズケーキを味わいながら医師がくれた「接収しない方が良い食品リスト」を眺めてみた。ケーキを口へと運ぶ僕の手が思わず止まった。そのリストの最初には太く見やすいフォントで「チーズ」と書かれてあった。そんなおっちょこちょいの僕はこれからもまたドタバタしながら生きてゆくのだろう。









“ebisu sky walk”
| column | comments(1) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
寂しい夜に生まれるもの 23:17
意外に感じる人もいるかもしれないけれど、クールに人と付き合うということが僕は得意じゃない。またそういう人間関係を長く続けてゆくということが出来ない。中途半端な心のやり取りしか出来ないなら、そんな関係はとっとと切ってしまいたくなる。親しい人とはとことん親しくなるが、そうでない人とはほとんど連絡も取らず、しばらく経つと携帯電話の登録からもいつの間にやら消えている。だから携帯電話の登録件数は仕事関係を除いた友人ということに限ってしまうとほんの数人しかいなかったりする。







“big bird”


人にそんな話をすると「本当は寂しがり屋なんじゃない?」などと云われたりする。確かに自分でもその通りなのだと思う。一人は寂しくて嫌だけど、一緒にいるのに心が通わせられないのはもっと寂しく感じる。そんなことならいっそのこと人と離れて一人でいた方がいい、なんて僕はつい考えてしまう。










“ebisu garden place”


そんなことを思う夜は音楽に没頭するのが一番。しかしどういうわけだか、そんな夜に限って飛び切りハッピーな曲が生まれたりする。自分のことながら人の心とは本当に不思議なものだと思う。







“hakkeijima sea paradise”
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涙腺 11:14
年を重ね、経験を重ねるごとに涙腺が緩くなってきている。最近では事故や事件を伝えるニュースを観ているだけで泣けてきたりする。辛いドキュメンタリーなどを観た日にゃ嗚咽までしてしまいそうになる。そんな自分はそのうちに「子泣き爺」と呼ばれてしまうかもしれない。注)「子泣き爺」=赤ん坊の泣き声を出し、相手にしがみつくと石のように重くなる。砂かけ婆とよく行動を共にする。徳島県出身。(「水木しげる妖怪ワールド」より)










“dior”


ちなみに御年82歳になる僕の父は、テレビに悲しいシーンが映し出されると早々に自分の部屋へ逃げ込んでしまう。そんな彼の行動を昔の僕は理解せず、ただ辛気臭いことが大嫌いな人、感情を見せたがらない人なのだと思っていた。しかしある日、母からそんな時の父は部屋で涙を拭っているんだよと知らされた。彼の感性は僕に似ているのだ。いや、順番から言えば、僕の感性が彼に似ている、というのが正しい。










“takeshiba”


涙が誘発されるのは、過去の自分の悲しい経験と似た環境を見たり、それを想起させるような状況を見たりした時に起こりやすい。そんな風に書くと年々、涙脆くなってきている僕の人生には悲しいことがどんどん増え続けているかのように聞こえてしまうかもしれないけれどそういうわけではない。むしろ年々、人生に楽しいと思えることが増えている。ではどういうことかと言えば、それは僕自身が徐々にマイペースで生きられるようになってきたことで、他人の身に起きた出来事がよく見えるようになり、自分に起きることと近しく感じられるようになってきたということ。もう少し突っ込んで云うと、いろんなことが他人事ということだけでは済ませられなくなってきたのだ。おかげで真面目に相談ごとなどを持ち掛けられると親身になりすぎて、つい熱心に語り過ぎてしまう傾向も出てきた。すると相談者の女性には僕が特別な感情や下心を抱いているように思われてしまい、僕は恋さえもしていないのにふられてしまうという悲劇が起こったりする。大損害である。相談された時、他の人はもっとクールに立ち振る舞うのかな?などと思う。でも気取って話したりするのは自分の性には合わない。僕にとって友人とは互いに柔らかい感情を見せ合えることが出来る人のこと。僕のように涙腺は緩過ぎるのはどうかと思うけれども、僕の友人となる人は、自分自身の心の琴線をいつも豊かに鳴らせる人であってほしいと思う。そんな人といる時の僕の心は共鳴をしている。そして大きな安らぎを感じている。










“kasai seaside park”
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正しいトリップのすすめ 12:17
僕が音楽を大好きになったきっかけはビートルズ。だから今でもポップなものは大好きなのだけれど、キング・クリムゾンやピンク・フロイドに代表される「プログレ(プログレッシュヴ・ロック)」が持つ難解さもとても好きなので、それをひとつの曲の中で表現してみようと思うと僕にとってはかなりややっこしいことになる。

プログレは形而上的な感性を心地よく刺激し、自己の中の意識の広がりというものを高めてくれるので、知的な快楽を大いに得ることが出来るのだけれども、それはまた一般的には現実逃避という方向へと向わせるかのようなイメージに捉えられがちなようだ。実際に違法なドラッグなどとの併用によってそのトリップ感を増幅する人は多いのだろうと思う。しかし最高のトリップをしたいのであればドラッグはいらない。というよりもドラッグによるトリップはただのマイナスにしかならないと僕は思っている。目や耳などの五感から得る情報と自己の精神から出でるイメージだけで充分に素敵なトリップは出来るし、そうしたものはドラッグとは違い、直接的に体への悪影響を及ぼすようなことはない。世の中にはトリップ感ばかりに取り憑かれた挙句、ドラッグばかりに頼り、その世界から抜け出せなくなってしまう人が大勢いるけれども、そういう人々を僕は大変残念に思ってしまう。世の中には音楽や絵画や瞑想など害無くトリップする方法はたくさんあるのに・・・・。きっとこの世界にあるそういう素敵なものの味わい方をよく知らずに生きてきてしまったのだろうと思う。

僕はアーティストだから想像力が「命」なのだけれども、想像力というものは何もアーティストだけに必要なものではないと思っている。誰にでも生きてゆく上で、また人生を楽しむ上で想像力は無くてはならないものだし、もしそれがひとかけらもないとすれば、日々の中での感動ということが起こるはずもない。言い方を変えれば「感動した」ということは自分の中に大いなる想像力があるということだ。










“intercept”by megu.megu


想像力の材料にするものは音楽や絵画などという「芸術作品」と呼ばれるものでなくても良いはずだ。大手旅行会社の企画したパック旅行でも誰かの作ったテレビゲームであっても良いのだと僕は思う。そこで「美しい」とか「楽しい」とか感じたことが何よりも大切なのだ。それはその人の感性そのものであるし、容易に創造性とも結びついてゆく。その為に必要なものはちょっとしたノウハウと創意工夫だけだ。想像力や創造性の源は自己の精神であり、その原動力となるのは自由な発想。小さな閃きがあればどんどんとそれは育ち、膨れ上がってゆく。誰にでもアーティストになれる可能性があるわけというわけだ。あとはどれだけそれが好きで、どれだけそれに時間が割けるかということで生業として関わってゆくのか、または趣味として関わってゆくのかということが自分の中で決まる。







“chair(t&w)”by akitoshi.ito


想像力は人を、またその人の人生そのものを豊かにする。そういった意味においても「自分を幸せにするのは自分自身」という言葉は当て嵌まると思う。想像力を得る為に用いるものはやはり誰かの想像力が一番いい。そうしたコミュニケーションの繋がりというものが「豊かな連鎖」を生み出してゆく。ドラッグ問題など社会における法的なシステムの構築と整備は必要なことだけれども、一人ひとりの心の豊かさをいかに高め、良い連鎖を築いてゆくかということはそのこと以上に大切なことだと僕は考えている。その為にもまずは世に溢れている感動たちを知り、自己の中の宇宙を少しでも感じてほしいと願っています。
| column | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
割り箸問題 16:00
今から10〜20年位前、ある雑誌に掲載されていた外国人男性の次のような話を読んだことがあった。その昔、彼は日本から来たという人から次のような話を聞かされた。『日本という国はとても小さな国で森林が非常に少ない為、食事をする時に使用する箸の材料が足りなくなって困ってしまっている。あなたにぜひ助けて欲しい』と。彼は日本のことはほとんど知らなかったのだが、それほどまでに困っている人々がいるのであればと、自分が所有し、大切にしていた山林を断腸の思いで提供することを決心した。そして年月が流れ、彼は日本を訪れることにした。自分が助けようとした国がどんな国なのか、見ておきたいと思ったからだ。長旅も終わりに近づき、飛行機がいよいよ日本上空にさしかかった時、彼は窓の下に広がる緑豊かな国を見た。彼はその時はじめて自分が騙されたと知ったのだという。








“hamarikyu”


その話を聞いてから僕はあるひとつのことを続けてきた。それは家で食する為にお弁当やお惣菜などを買う場合には割り箸を受け取らないということ。同じようなお弁当が並んでいる時には割り箸が一緒にパッケージされていないものを買う。ただそんな単純なことだ。当時、「割り箸論争」というものが巻き起こった。かなり激しく論じられたように記憶している。「持ち箸運動」なるものも起こった。外出時には「マイ箸」を持ち歩き、外食する際にも割り箸を使わない、といったことだ。僕もこの運動に参加するかどうかと随分迷ったものだ。周囲の人に意見を求めたこともあった。『そんなことをしても何も変わらない。無駄なことはやめておけ』それが大方の人の意見だった。結局、その当時の僕はこれには参加することはしなかった。それは少数の活動が無駄だという意見に賛同したからじゃなく、自分が継続できないようなことから始めてはいけないと考えたからだ。

フィリピンで大規模な「地滑り」が起こった。どうやら二千人からの死者が出てしまいそうだとテレビのニュースが伝えていた。またそれは森林伐採にもその災害の原因があるのかもしれないと続けていた。もし本当にそうだったとしたなら、まさしくそれは「人災」だ。僕はすぐに「割り箸論争」や「持ち箸運動」のことを思い出した。あの当時、そうしたことに気付きながらも積極的に参加しなかった自分が「人災」の片棒を担いでいるような気持ちにもなった。今からでも森林伐採のことを少しでも学び、考え、行動してみたいと思った。「持ち箸」のことも今一度考えてみようと思う。もしかしたらあの当時のように「持ち箸」まではしないのかもしれない。心の命ずるまま、素直な気持ちで今、自分がしたいと感じることを探そうと思う。下記はこの「割り箸問題」について詳しい考察をしているサイト。興味のある方はぜひごらん頂ければと思う。「割り箸問題から見る環境問題」

今、僕は「the 5th season」というユニットを組んで活動している。そのユニット活動のテーマは「lohas」。このテーマがあって僕等のアートは出会い、共に活動を始めることも出来た。このユニットに参加している他のアーティストたちにもそれぞれの思いというものがあるのだけれど、僕にとってのその原点は何といっても「割り箸問題」だ。「環境問題」は人類が何とか解決しなければならないことだと思いつつ、苦痛を伴うようなことを自分には継続できるはずもなく、ただくすぶっているだけのような現状の僕に「継続可能な生活スタイル」という「lohas」の基本理念は自由な発想を与えてくれている。自分が本当にしたいと思ったことを自分にあったスタイルで取り組んでゆけば良い。

僕等はとても恵まれているのかもしれない。または生ぬるいところからしか始められない腑抜けなのだとも云えるのかもしれない。何せ楽しみながら「環境問題」に取り組んでいこうなどと悠長なことを云っているのだから。そうした厳しい意見も甘んじて受け入れながら僕は自分の出来ることを一生懸命探し、行動してゆくしかない。そして僕は思っている。せめてこれから始めることだけはきっちりとモノにしてゆきたいと。
| column | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
作文 01:46
文章は書いていてとても楽しいと思う。でもそんな風に言えるようになったのはつい最近のこと。書き始めた最初の頃はそんなことは冗談でも言えなかったな。何といっても元々、僕は文章が書くのが苦手だった、というか、文章を書くことをやたらと面倒くさがるタチだった。そんな意識を変えてみたいと思い、書き始めたロゼッタストーンのエッセイもみなさんの応援のおかげもあって早10ヶ月を過ぎたところ。

今思えば、小学校の頃の僕は人よりも作文の進み具合が極端に遅かった。他人に覗き見などをされるのがとても嫌いだったな。そうそう、覗き見といえば、小学校のトイレで小用を足す際には隣に立っているヤツに覗かれて何か余分なことを言われたりするのが嫌で、そんなことを気にしている自分を感じるのも嫌で、誰かが隣に並んだりするだけでやたらと警戒してたもんね。別に何かについて自信がないとかあるとかという問題じゃなくて、ただ自分の本質とは違うところで他人に勝手な評価されるのが昔から嫌だった。誰かに見られそうに感じると集中できなくなっちゃってね。










“breathe”


そんなわけで作文も大概は授業中に書き終えることが出来ない。当然、居残りなんかもさせられたりするのだけれども、他のみんなが帰って自分ひとりになってしまうとそこからはやたらと早かったりする。そしてちゃんと完成して先生に見せるとそれは作文コンクールとかに推薦されたりしてさ。で、結果としては褒められることが多かったんだけど、先生からは「これだけのものが書けるんだから最初からしっかりやるようにしましょうね」などと余分なことを言われたりした。
―でもこれはそういう問題じゃないです。環境が整わないせいなんだから―
などと自分の心の中でいつもつぶやいてたような気がするな。そんな言い訳ばかりをつぶやいている自分の姿ばかりを捉えて「情けない自分」と小学校の頃からずっと「短所」だと認識していた。でも近頃はそれをただ性格のひとつの「表れ」だと思うようにもなって、自分を活かす方法を知る為に必要な判断材料のひとつとして捉えられるように考えが変わってきた。実際、そんな風にいろいろと気にする、また細かいところにも気づく、そんな自分の性質のおかげで生み出されるものもあるわけです。それで様々に考えた挙句、つまり今までの僕にとって問題だったのは、適した環境が整わないと出来なかった自分なのではなくて、自分に適した環境を積極的に作ろうとしなかった自分だったのだと気づいた。それに気づくまでにかなりの年月がかかったけれど、今更ながらも気づいただけ良かったと思った方が良いのですよ。これからは自分の性質、性格を活かし、良いものを期限内に完成させられるようになれれば万々歳!
・・・・そ、そう言えば、先月の25日に掲載されるはずだったエッセイの原稿、まだ考えてもいなかったような・・・・。僕はまだまだ自分を充分に活かせるほどの成長はしていないらしいです。どんまいケル♪



| column | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
ことはじめ 11:20
こんにちは、川島佑介です。

現在、僕は「ロゼッタストーン」誌上で「川島佑介のtasting time」というエッセイを連載しているのですが、自分の表現スタイルのひとつとして意識的にちょっと堅めな文章で書いてます。けれど、最近になって『川島佑介さんって、とっても真面目な人なんですね』などと言われるようなことが多くなって、そういう言葉に対して現実の自分は真面目な面ばかりじゃないんですよ(普段の僕を知る方はその辺りのギャップについてはよく知っていると思うけれど・・・・)〜などと説明したい気持ちが胸の中で強く込み上げてくるようになってきました。
そこで僕が普段、何気なく感じてることも日々気楽に書いてゆける場を作ろうと思いつき、本日「節分」という日をきっかけにブログを始めることにしたわけです。







“kasai seaside park”


実は『tasting〜』は僕の初めての執筆活動でして、月二回の更新ということもあり、結構、集中して頑張って書いている部分も多いのだけれど、このブログの方は出来るだけリアルタイムで僕自身のありのままを伝えてゆきたいので、内容の方は取り合えずはさておき、出来るだけマメに更新を続けてゆくことを大切にしたいと思ってます。さてさてどんなブログになることやら・・・・。もしかしたら自分自身の新たな一面を認識するきっかけになるかもとちょっと自分でも期待していたりもします。というわけで、これからは普段着の川島佑介の方もよろしくです♪



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