昨日は祖父の命日。一家で墓参りに出掛けました。このところ体調が不安定な母には車椅子に乗ってもらうことにしました。千葉の墓所までの移動は徒歩と交通を含めて片道一時間半の距離。墓所までは私鉄と営団地下鉄、そしてJRを使った数度の乗換えがあります。これ程の長い距離を車椅子で移動してもらうのは初めての事ゆえ、何かしらの問題が起きはしないかと内心、僕は若干の不安を抱いておりました。けれど危惧していたようなことは何一つとして起こらず、天候にも恵まれ、とても穏やかな時間を一家で過ごすことが出来ました。
私鉄、営団地下鉄、JRの種別に関わらず、車椅子の通れる幅の広い自動改札の脇には駅員さんが常駐しているカウンターが隣接されています。その改札を通り抜けようとすると駅員さんは声を掛けます。そして乗客の行き先を確認した駅員さんは待機中の駅員さんへ連絡。数分も経たないうちに別の駅員さんが到着し、乗客を乗車ホーム階へと誘導します。基本的にはエレベーターやエスカレーター等の設備があるところが多いわけですが、古い時期に設計施工された駅は、その構造上の事情などからバリアフリーとしての改善が遅れており、未だに階段だけしかないところもあるそうです。しかしそうした駅では複数名の駅員さんが集まり、息を合わせて車椅子を持ち上げ移動してくれます。そして乗車時にはホームと車両との間に車椅子の乗降を補助するプレートを設置、降車駅には事前に乗車駅からの連絡を受けていた駅員さんが待機し、プレートを設置し、乗換口まで送り届けてくれます。
普段は気づかずにいたのですが、実は駅構内では様々な配慮がなされているのです。しかし現状の設備で既に充分な状況なのかと云えば“否”であると現場の、ある駅員さんがおっしゃっていました。つまり今はまだ人の努力だけでは補いきれない部分もあるということです。今回の墓参りでは思いがけず、駅員さんたちのご苦労を感じた一方、そうした方々のお陰で助けられる側の有り難さも感じることが出来ました。それは僕にとってとても貴重な経験でした。
ひと昔ふた昔前と比べ、社会の中での「バリアフリー」が進んでいることは紛れもない事実。しかし急速に進んできている高齢化社会のことを考えると建造物の段差をなくする「バリアフリー」という考えのままで満足してはいけないと僕は思っています。障害者や高齢者などにとっての対応が容易である「アクセシビリティ」という考え方や取り組み方へとシフトしてゆく必要性があると感じているのです。
例えばエレベーターの配置。各々の階にエレベーターが存在していたとしても乗り継ぐのに苦労をしてしまうようでは利便性が満たされているとは云えません。やはり実際に使い勝手の良いものでなければ、それを真剣に求める人々にとっては意味をなさないものになっているのかもしれません。
ハード面の充実は、物事に対する「思いの強さ」や「思いの深さ」に従う形で進んでゆくもの。何事もまずは「関心を持つ」といったことから始まりますが、そこから「実際に利用する立場になってどこまで考えられるか」ということがさらに大切になるのです。言い換えれば、ハード面の充実が追いついてゆかないという状況は「思いの弱さ」や「思いの浅さ」を露呈しているとも云えるのかもしれません。
そうした「思い」はどこから生まれてくるのでしょう。そのもっとも大きな部分はやはり「実体験」からということなのではないでしょうか。かく云う僕も家族の内にそういった立場の人間がいてくれたから初めて気づかされたことです。でもそうした「家族」という感覚を「肉親」というカテゴリーから離れ、より広い範囲で持てるならば、様々な状況における「アクセシビリティな世界」のイメージを持つことが可能になるでしょう。そしてこの世界の中で自分を活かしてゆける方法が意外なところに見い出せるようになるかもしれません。どうやら僕にとってはまたひとつ学びたいことが増えたようです。