It's my melodyいつか君の夢 かなえるために 今日を生きているよ 忘れないで
すべてのこと 今 思いのままに そして きっと明日のために

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涙腺 11:14
年を重ね、経験を重ねるごとに涙腺が緩くなってきている。最近では事故や事件を伝えるニュースを観ているだけで泣けてきたりする。辛いドキュメンタリーなどを観た日にゃ嗚咽までしてしまいそうになる。そんな自分はそのうちに「子泣き爺」と呼ばれてしまうかもしれない。注)「子泣き爺」=赤ん坊の泣き声を出し、相手にしがみつくと石のように重くなる。砂かけ婆とよく行動を共にする。徳島県出身。(「水木しげる妖怪ワールド」より)










“dior”


ちなみに御年82歳になる僕の父は、テレビに悲しいシーンが映し出されると早々に自分の部屋へ逃げ込んでしまう。そんな彼の行動を昔の僕は理解せず、ただ辛気臭いことが大嫌いな人、感情を見せたがらない人なのだと思っていた。しかしある日、母からそんな時の父は部屋で涙を拭っているんだよと知らされた。彼の感性は僕に似ているのだ。いや、順番から言えば、僕の感性が彼に似ている、というのが正しい。










“takeshiba”


涙が誘発されるのは、過去の自分の悲しい経験と似た環境を見たり、それを想起させるような状況を見たりした時に起こりやすい。そんな風に書くと年々、涙脆くなってきている僕の人生には悲しいことがどんどん増え続けているかのように聞こえてしまうかもしれないけれどそういうわけではない。むしろ年々、人生に楽しいと思えることが増えている。ではどういうことかと言えば、それは僕自身が徐々にマイペースで生きられるようになってきたことで、他人の身に起きた出来事がよく見えるようになり、自分に起きることと近しく感じられるようになってきたということ。もう少し突っ込んで云うと、いろんなことが他人事ということだけでは済ませられなくなってきたのだ。おかげで真面目に相談ごとなどを持ち掛けられると親身になりすぎて、つい熱心に語り過ぎてしまう傾向も出てきた。すると相談者の女性には僕が特別な感情や下心を抱いているように思われてしまい、僕は恋さえもしていないのにふられてしまうという悲劇が起こったりする。大損害である。相談された時、他の人はもっとクールに立ち振る舞うのかな?などと思う。でも気取って話したりするのは自分の性には合わない。僕にとって友人とは互いに柔らかい感情を見せ合えることが出来る人のこと。僕のように涙腺は緩過ぎるのはどうかと思うけれども、僕の友人となる人は、自分自身の心の琴線をいつも豊かに鳴らせる人であってほしいと思う。そんな人といる時の僕の心は共鳴をしている。そして大きな安らぎを感じている。










“kasai seaside park”
| column | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
正しいトリップのすすめ 12:17
僕が音楽を大好きになったきっかけはビートルズ。だから今でもポップなものは大好きなのだけれど、キング・クリムゾンやピンク・フロイドに代表される「プログレ(プログレッシュヴ・ロック)」が持つ難解さもとても好きなので、それをひとつの曲の中で表現してみようと思うと僕にとってはかなりややっこしいことになる。

プログレは形而上的な感性を心地よく刺激し、自己の中の意識の広がりというものを高めてくれるので、知的な快楽を大いに得ることが出来るのだけれども、それはまた一般的には現実逃避という方向へと向わせるかのようなイメージに捉えられがちなようだ。実際に違法なドラッグなどとの併用によってそのトリップ感を増幅する人は多いのだろうと思う。しかし最高のトリップをしたいのであればドラッグはいらない。というよりもドラッグによるトリップはただのマイナスにしかならないと僕は思っている。目や耳などの五感から得る情報と自己の精神から出でるイメージだけで充分に素敵なトリップは出来るし、そうしたものはドラッグとは違い、直接的に体への悪影響を及ぼすようなことはない。世の中にはトリップ感ばかりに取り憑かれた挙句、ドラッグばかりに頼り、その世界から抜け出せなくなってしまう人が大勢いるけれども、そういう人々を僕は大変残念に思ってしまう。世の中には音楽や絵画や瞑想など害無くトリップする方法はたくさんあるのに・・・・。きっとこの世界にあるそういう素敵なものの味わい方をよく知らずに生きてきてしまったのだろうと思う。

僕はアーティストだから想像力が「命」なのだけれども、想像力というものは何もアーティストだけに必要なものではないと思っている。誰にでも生きてゆく上で、また人生を楽しむ上で想像力は無くてはならないものだし、もしそれがひとかけらもないとすれば、日々の中での感動ということが起こるはずもない。言い方を変えれば「感動した」ということは自分の中に大いなる想像力があるということだ。










“intercept”by megu.megu


想像力の材料にするものは音楽や絵画などという「芸術作品」と呼ばれるものでなくても良いはずだ。大手旅行会社の企画したパック旅行でも誰かの作ったテレビゲームであっても良いのだと僕は思う。そこで「美しい」とか「楽しい」とか感じたことが何よりも大切なのだ。それはその人の感性そのものであるし、容易に創造性とも結びついてゆく。その為に必要なものはちょっとしたノウハウと創意工夫だけだ。想像力や創造性の源は自己の精神であり、その原動力となるのは自由な発想。小さな閃きがあればどんどんとそれは育ち、膨れ上がってゆく。誰にでもアーティストになれる可能性があるわけというわけだ。あとはどれだけそれが好きで、どれだけそれに時間が割けるかということで生業として関わってゆくのか、または趣味として関わってゆくのかということが自分の中で決まる。







“chair(t&w)”by akitoshi.ito


想像力は人を、またその人の人生そのものを豊かにする。そういった意味においても「自分を幸せにするのは自分自身」という言葉は当て嵌まると思う。想像力を得る為に用いるものはやはり誰かの想像力が一番いい。そうしたコミュニケーションの繋がりというものが「豊かな連鎖」を生み出してゆく。ドラッグ問題など社会における法的なシステムの構築と整備は必要なことだけれども、一人ひとりの心の豊かさをいかに高め、良い連鎖を築いてゆくかということはそのこと以上に大切なことだと僕は考えている。その為にもまずは世に溢れている感動たちを知り、自己の中の宇宙を少しでも感じてほしいと願っています。
| column | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
「ESSENCE」と「日本大通り」 23:19









“yokohama kaikou memorial museum”


みなとみらい線「日本大通り」駅から地上に出ると眼前に聳え立つのは、横浜の開港50周年を記念し、1917年に一般公募のデザインを基に建造され、その後、重要文化財となった「横浜市開港記念会館」。その向かいにbar & restaurant「ESSENCE」はあります。重厚な作りのこの店では、その落ち着いた雰囲気の中でお気に入りのSoul musicとお酒を味わいながら、ゆったりとした大人の時間を過ごすことが出来ます。











“ESSENCE”


現在、ここでは3月14日までの日中に限り、「vallentine’s & white day fair」が開催されていて、僕の参加している「the 5th season」の作品たちとハーブ・ティー、ハーブ・スイーツなどが共に楽しめる趣向になっています。そう云えば、今日の日中に行われていた「横浜国際女子駅伝」の第一区では、各国の選手たちがこのお店の横を走り抜けている姿がテレビに映し出されていました。










“ESSENCE”


この店のオーナーK氏と僕とはもう二十年来の友人であり、また麻雀仲間です。その彼のお店で記念すべき「the 5th season」の初めてのイベントが行われているということは、僕にとってとても嬉しいこと。また来月11日には昨年のデビュー以来、これまた初めてとなる、サポートメンバー無しの「ひとりライブ」も予定されています。何せ、ライブをするような設備までは兼ね備えていないお店ですから、ひとりでやるとどうなるのか、ということも含め、具体的にどんな形のライブになるのかは、僕自身でも今のところはまったく見当がつかないのですが、ただそこでしか味わえない特別な時間にはしたいな、とは考えています。今の時点で演奏曲目などもほとんど未定ですが、もしリクエストなどにはなるべくお応えしたいと思っています。昔の曲もやるかもしれません。








“osanbashi”


それからこのお店の近くには僕の好きな「大さん橋」もあります。もし「ESSENCE」においで頂ける際は、少し時間に余裕を持ち、ぜひとも「大さん橋」での心地よい時間も一緒に楽しんでいって下さい。
| sightseeing | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
飯田橋「青葉」と神楽坂「紀の善」 22:36
飯田橋「青葉」の「特製つけ麺」を頂いた。豚骨、鶏がらに魚介のダブル・スープに「かえし」が加えられて深みと甘味が感じられる、と聞いていたが、実際に食してみるとその通りの味だった。さすが「ラーメン通」の方々が書いているブログをいくつか先に読んでおくと店選びの際にとても参考になるものだ。










“aoba”


「つけ麺」は普段、贔屓にしている目白「丸長」、池袋「えるびす」の味になれているせいか、酸味が利いている方が僕の好みだ。「つけ麺」だけではなく、僕は他の料理においても酸味のある方が好きかもしれない。中華料理にはビシバシと「酢」をかけるし、餃子のタレの比率の基本は醤油2:酢2:辛油1の割合だったりする。「青葉」のつけ麺にも酸味を感じたが僕には少々物足りない気がした。でもきっと平均的な味覚を持った方には「適度な酸味」かもしれない。飯田橋「青葉」の「特製つけ麺」は非常にバランスの良い、とても優秀なつけ麺だという評価。

「青葉」の帰りに歩いて5分のところにある神楽坂の甘味処「紀の善」へ寄った。お目当ては大好物の「抹茶ババロア」。中山美穂、豊川悦司のドラマ「love story」の中で、トヨエツ扮するところの主人公の大作家、永瀬康の大好物がこの「紀の善」の「抹茶ババロア」だった。僕はこのドラマを観てこの食べ物のことを知り、それまでは和菓子が大嫌いなくせに何故かどうしても食べてみたいという衝動に駆られてしまい、約五年前のある日、女性ばかりの店内へ一人足を踏み入れ味わってしまったのだ。

神楽坂という場所は僕の通っていた高校の近くだった。入学時から一年間、新聞販売店に住み込みで働いていた土地だったからよく知っていたし、またその界隈では名店として通っていたこの店のことも当然のようによく知っていた。しかし「抹茶ババロア」のことはまったく知らなかった。










“maccha bavarois”


「抹茶ババロア」は濃い抹茶で作られたババロアに甘味を抑えた生クリームと上質な餡子が添えられた食べ物。これを食してから僕は洋菓子だけではなく、和菓子にも目覚めてしまい、それからというもの、美味しい和菓子があると聞けば、大雪の日にもわざわざ出掛けて言ってしまう程だ。「抹茶ババロア」こそは、その後の我が体型に著しい変化を起こすきっかけを作ってくれた傑作である。
| gourmet | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
Viva,Torino!(女子フィギュア・スケート編) 17:45
さていよいよ「女子フィギュア・スケート決勝」の日がやってきました。朝方のLIVEなので、今夜の僕は目覚まし時計を三個ばかりセットして早々に寝ることにします。ということで、今日は一丁前にメダル予想なんぞを書いてみようと思います。










“fuyubotan”


ショート・プログラム1位のサーシャ・コーエンが20番目、3位の荒川静香が21番目、4位の村主章枝が22番目、2位のイリーナ・スルツカヤが24番目。この演技順をどう読むかということがやはり今回の予想の大きな鍵になるだろう。演技にそつの無いコーエン選手にとって他の有力選手の前にできることはプレッシャーもかからず、とても良いことなのかもしれないし、ある程度の点数は計算できるのだとは思う。しかし今回のように上位の点数があまりに拮抗していると、終盤に進む程にドラマティックさを期待する向きが観客の中に溢れてくるのは当然のこと。そしてそんな会場の盛り上がりを受けてジャッジも大いに影響されることだろう。そうなるとコーエン選手よりも技術力、表現力に秀でているスルツカヤ選手の方がその演技順も含めて圧倒的に有利だと思う。ソルトレークでは銀メダルに終わり、そのジャッジに対して大泣きをしたのはとても印象が強い。大量の薬で持病の心臓病を抑えながら挑んでいるこの大会にかける、今度こそは必ず、という思いはこの上なく強いだろう。そしてそれは本人だけではなく、ジャッジする側にもあるのではないかと報道されている。本当のところはどうなのだろうか。もしそういったことが本当にあるのであれば彼女の有利さはかなりのものになるだろう。しかし荒川選手にとってもかなり有利な材料があることは間違いない。表現力においてコーエン選手より数段上の評価を与えられたショート・プログラムの結果を見る限り、コーエン選手のすぐ後に演技する荒川選手は観るものに強い印象を残せるだろう。その直後の村主選手もドラマティックさにおいては荒川選手と比べても勝るとも劣ることは無い。荒川選手以上にアピール出来るようであれば、かなり得点も伸びるだろう。その時にはコーエン選手をかわし、さらに上位にくるかもしれない。そうなってくるとその後のスルツカヤ選手の表現力も意外と高得点を得られなくなってくるのかもしれない。つまり順位の鍵は村主選手ということか・・・・。










“ueno toshogu”


結論。まず前提としてどの選手にも致命的なミスがないものとする。村主選手の演技が完璧だったならば「金」は荒川選手、「銀」はスルツカヤ選手、「銅」は村主選手。村主選手がまずまずという演技だったならば「金」はスルツカヤ選手、「銀」は荒川選手、「銅」はコーエン選手。もしも三連単を買えるならば、「21番―24番―22番」と「24番―21番―20番」の二点で勝負だ!・・・・と展開予想だの三連単だのと競馬的な予想をしてしまいました。










“ueno park”
| sports | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
「the voice from the sea」 11:10
40代から新たに歩み始めた三人のアーティストで構成されているユニット「the 5th season」の最初のプロジェクトをいつ、どこで、どんな形で行うかということは昨年末あたりからメンバーの間で度々話し合ってきた。やがて各アーティストの展示作品を楽しみながらハーブ・ティなどが味わえる「vallentine's & white day fair」という構想となり、現在、横浜のbar & restaurant「ESSENCE」にて3月14日まで開催されている。僕は開催初日の2月2日までに三曲を収録したCDを制作し、それはそのまま「the 5th season」企画の第一弾CDとして発売されることとなった。

 









bar & retaurant“ESSENCE”


そのCDの一曲目には70年代ポップス的な「レンブラントの空」があり、三曲目には90年代ポップスを意識しながら作った「宇宙の片隅で」がある。そしてその二曲の間にこの「the voice from the sea」という曲が収められている。「川島サウンド」を共に構築してきたパートナーの川瀬くんとは以前より「声を楽器のように扱ったインストゥルメンタル的な曲を作ってみたい」と話していた。そしてその最初の作品になったのが、「the voice from the sea」という曲。これは昨年12月に行ったクリスマス・ライブのリハーサルの休憩中、川瀬くんの爪弾くギターに合わせ、僕が口ずさんだ即興的なメロディを、川瀬くんが自宅へ持ち帰り、歌以外の部分を作って、ひとつの作品にまとめ上げてくれた。ちなみにアレンジと演奏はすべて川瀬くんが一人でこなしている。この曲のタイトルは、出来上がった音をリプレイしている時に「深い海の底から語りかけているかのよう」に感じたのでそう決めた。どんなことを語りかけているのかは聴いた人それぞれにいろいろ感じてもらえると嬉しい。この曲はとてもシンプルで短い曲なのだけれども、僕等に新たな方向性や可能性を感じさせてくれる作品になったと思うし、これからもチャンスがあればまたこのような作品を作ってみたいと考えてる。










“odaiba”


最後にCDジャケットについて。撮影場所は「お台場海浜公園」。「自由の女神」の横の階段を降りていった辺りだったと思う。時期は一月半ばで、この日は光がとても弱く、どんな写真になってしまうのかと少し心配していたのだけれど、逆にそんな条件が海岸とも月面とも判断出来ない面白い作品を創ってくれた(まぁ月まで撮影しに行くことは今のところ有り得ないんだけどね)。波打ち際の岩の上に置かれている作品は「the 5th season」のめぐメグのマリン・グラス&海草アート「ハナノキモチ」。僕は繊細な世界観を持った彼女の作品が以前から好きだったので、今回お願いしてジャケットに使わせて頂いた。

 





 “sea world”
by megumegu
| music | comments(1) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
「サタデー・ナイト・フィーバー」 02:06
この有名なダンス青春映画を初めて観たのは二十歳になってから。その時は、自分とは違う青春を過ごした人たちの映画、という感覚に囚われてとても退屈な印象しかなかった。この映画が最初に公開されたのは1977年だというから、当時の僕は17歳だったということになる。その頃から映画は大好きだったけれどもディスコにはまったく興味がなかった為に劇場に足を運ぶことは無かった。僕の高校でも夜な夜な新宿や渋谷のディスコに通っているという奴等は結構いたからいろいろと話だけは聞く機会があった。



ディスコへ行く奴には三種類のタイプがあるという。一番目のタイプは、とにかく踊ることが好きな奴、二番目はナンパが目的の奴、三番目は踊ることもナンパも好きな奴、なのだそうだ。ちなみに踊ることもナンパも苦手だった僕はブームが続いていた間にディスコへ足を踏み込むことはなかった。でもそんなことが毎夜のように楽しめる奴等に対して羨望を抱いていたな。朝帰りをするということも当時の僕にはかなり楽しそうなことだと想像していた。



二十歳代も半ばを過ぎた頃、ある夜、一緒に飲んでいた女の子が『踊りにいきたい』と急に言い出し、僕は酔いに任せて歌舞伎町の東亜会館の中にあった「新宿ゼノン」へ行ってみた。その時のホールには2、30人程のお客さんがいたと思う。あまりダンスが上手な人も見当たらず、それが初心者で気後れ気味の僕には好都合で、「踊る」ということも適当に味わえた。お決まりのミスドーでの時間潰しの後、始発の山手線での朝帰りも経験した。『あの頃のあいつらはこんな風に遊んでいたのか』と遅ればせながらもその時に初めてディスコ遊びというものの楽しさの一端を知ることが出来た。











DANCE☆MAN in hatsudai


昨日、四半世紀ぶりに「サタデー・ナイト・フィーバー」を観てみた。そのきっかけは数日前に観た「炎のメモリアル」という映画にジョン・トラボルタが出ていて、ふと彼のルーツをもう一度味わってみたいと思ったのだ。やたらと年を重ねたおかげで偏見やコンプレックスも落ち、素直な状態で改めて観てみると、「サタデー・ナイト・フィーバー」はものすごく面白い映画だということが解った。若さが持つ「熱」というものが強く感じられ、自分もそんな青春を送ったような錯覚に陥った。そして観ている内に何かさらなるチャレンジをしてみたいという衝動にも駆られた。いまさらの青春映画も良いもんだと思った。



「サタデー・ナイト・フィーバー」の主演でデビューしたジョン・トラボルタは6年後に続編「ステイン・アライブ」で再度の主演を果たすものの、ルックスとダンスの上手さだけでスターダムにのし上がってしまったことのツケが回り、長い長いスランプの時代へと入ってゆく。しかしその後、彼は我慢強く演技というものを学び、やがて性格派俳優としてハリウッドへ戻ってくる。以降の活躍は皆さんもご存知の通り。そんなわけで一本の映画からいろんな元気をもらった誕生日だった。
| cinema | comments(0) | trackbacks(1) | posted by 和栗卓也
割り箸問題 16:00
今から10〜20年位前、ある雑誌に掲載されていた外国人男性の次のような話を読んだことがあった。その昔、彼は日本から来たという人から次のような話を聞かされた。『日本という国はとても小さな国で森林が非常に少ない為、食事をする時に使用する箸の材料が足りなくなって困ってしまっている。あなたにぜひ助けて欲しい』と。彼は日本のことはほとんど知らなかったのだが、それほどまでに困っている人々がいるのであればと、自分が所有し、大切にしていた山林を断腸の思いで提供することを決心した。そして年月が流れ、彼は日本を訪れることにした。自分が助けようとした国がどんな国なのか、見ておきたいと思ったからだ。長旅も終わりに近づき、飛行機がいよいよ日本上空にさしかかった時、彼は窓の下に広がる緑豊かな国を見た。彼はその時はじめて自分が騙されたと知ったのだという。








“hamarikyu”


その話を聞いてから僕はあるひとつのことを続けてきた。それは家で食する為にお弁当やお惣菜などを買う場合には割り箸を受け取らないということ。同じようなお弁当が並んでいる時には割り箸が一緒にパッケージされていないものを買う。ただそんな単純なことだ。当時、「割り箸論争」というものが巻き起こった。かなり激しく論じられたように記憶している。「持ち箸運動」なるものも起こった。外出時には「マイ箸」を持ち歩き、外食する際にも割り箸を使わない、といったことだ。僕もこの運動に参加するかどうかと随分迷ったものだ。周囲の人に意見を求めたこともあった。『そんなことをしても何も変わらない。無駄なことはやめておけ』それが大方の人の意見だった。結局、その当時の僕はこれには参加することはしなかった。それは少数の活動が無駄だという意見に賛同したからじゃなく、自分が継続できないようなことから始めてはいけないと考えたからだ。

フィリピンで大規模な「地滑り」が起こった。どうやら二千人からの死者が出てしまいそうだとテレビのニュースが伝えていた。またそれは森林伐採にもその災害の原因があるのかもしれないと続けていた。もし本当にそうだったとしたなら、まさしくそれは「人災」だ。僕はすぐに「割り箸論争」や「持ち箸運動」のことを思い出した。あの当時、そうしたことに気付きながらも積極的に参加しなかった自分が「人災」の片棒を担いでいるような気持ちにもなった。今からでも森林伐採のことを少しでも学び、考え、行動してみたいと思った。「持ち箸」のことも今一度考えてみようと思う。もしかしたらあの当時のように「持ち箸」まではしないのかもしれない。心の命ずるまま、素直な気持ちで今、自分がしたいと感じることを探そうと思う。下記はこの「割り箸問題」について詳しい考察をしているサイト。興味のある方はぜひごらん頂ければと思う。「割り箸問題から見る環境問題」

今、僕は「the 5th season」というユニットを組んで活動している。そのユニット活動のテーマは「lohas」。このテーマがあって僕等のアートは出会い、共に活動を始めることも出来た。このユニットに参加している他のアーティストたちにもそれぞれの思いというものがあるのだけれど、僕にとってのその原点は何といっても「割り箸問題」だ。「環境問題」は人類が何とか解決しなければならないことだと思いつつ、苦痛を伴うようなことを自分には継続できるはずもなく、ただくすぶっているだけのような現状の僕に「継続可能な生活スタイル」という「lohas」の基本理念は自由な発想を与えてくれている。自分が本当にしたいと思ったことを自分にあったスタイルで取り組んでゆけば良い。

僕等はとても恵まれているのかもしれない。または生ぬるいところからしか始められない腑抜けなのだとも云えるのかもしれない。何せ楽しみながら「環境問題」に取り組んでいこうなどと悠長なことを云っているのだから。そうした厳しい意見も甘んじて受け入れながら僕は自分の出来ることを一生懸命探し、行動してゆくしかない。そして僕は思っている。せめてこれから始めることだけはきっちりとモノにしてゆきたいと。
| column | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
「亡国のイージス」 23:02
うちの近所のレンタル・ビデオ・ショップは新作、準新作を三本まとめて借りると一本330円で借りられる。今週はまず二本観たい映画があって、すぐにそれはDVDのパッケージから抜き出して手にしていたのだけれど、あと一本が決まらなかった。その時「亡国のイージス」という映画のことを思い出した。

昨年の夏、浅草花やしき駐車場でライブを行った。それはその頃、封切られたばかりの映画「亡国のイージス」の劇場公開の記念イベントだった。ライブの中でMCの男の子たちに『川島さんは映画好きということですが、もうこの「亡国のイージス」という映画はご覧になりましたか?』と聞かれた。僕はにっこり笑って『まだ観てません!』と正直に答えた。そう答える直前、もしかしたら劇場招待券がもらえるかも、などとささやかな期待を一瞬抱いたけど、「MCイージス」たちには『良い映画なので、劇場でぜひ観て下さいね!』とあっさり交わされてしまった。それから半年が経ち、とうにDVD化もされていたのも知ってはいたけれど、映画に対する興味もあったけれども、何故か観ないままでここまできてた。でもそれは、何かのプレゼントに応募したけれど当選からもれて、『ただで貰えたかもしれないのに、いまさらお金を出すのはもったいない』などというケチな気持ちがあったからではないぞ〜!









“koishikawa”


― 映画の感想

愛するものに対する思いやその表現については様々な形があって然るべきなのだけれども、それが「国家」または「法律」というような皆が共有する大きな存在を対象とするに至っては、公の場での議論を重ねてゆくことが必要なのであって、いざ行動を起こすという折には「社会のルール」というものに則った行動を執らざるを得ない・・・・そういった社会的モラルについては誰もがよく知っていること。しかし思い詰めてしまった人の心にはそんなことがどうでもよく思えたり、また時には本望を遂げるに手続きというものが邪魔なものとしか感じられないこともある。ある映画の中の革命家は「何時も国のルールに縛られていてはそれを変えることは出来ない。常に進化は革命によってもたらされてきた」というような台詞を言っていたのを覚えている。

最後の局面において人は自分の人生の中で芽生えた「使命」や「良心」といったものに照らし合わせ、決断し、行動する。しかしその「使命」や「良心」も人それぞれ。つまりある人々の心にはその行動が「善」と映ったとしても他の人々には「悪」として映ることなのかもしれない。それぞれが違う価値観で生きるこの相対的な世界ではすべての人にとっての理想などあるはずもないのだろう。しかしそれでも人間は人間にとっての理想の社会の構築を目指す。そうすることのプロセスの中で人は幸せというものが何であるのかを学んでいるのであって、何よりそれを学ぼうとすること自体が尊いことなのだと感じる。社会における普遍的な答えなどないのだとしても、個人の心の中には確たる答えが見つかるかもしれない。いや、僕はそれを信じ、望みながら生きているのだと感じる。そして僕は自分の中の「使命」や「良心」を探す為に、またそれらを誰かと共有したいが為にこうしていろんなことを表現しているのかもしれない。
| cinema | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
ジャケ写撮影 23:44
今日は3rdシングル(題名未定)のジャケット写真を撮りに「平和島公園」に行ってきました。モデルさんの都合があって撮影時間はほんの5分程でしたが、天気も悪くはなかったし、まずまず良いものが撮れたように感じています。







“heiwajima no sora”


で、どんなジャケットかって?それはもうしばらく待っていてね。何せデザインなどは考えずに雰囲気で写真だけ先に撮ってしまったもので、伝えようにも今のところは僕の中に何もない状態なんです。
取り合えず、発売は4月に予定していて「the 5th season」の次なるフェアのコンセプトに合った内容の曲を2〜3曲収めるつもりです。
| music | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 和栗卓也
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